、深緑

それは夜の帳が落ちた頃、虫の声が嫌に五月蠅く鳴く日のことであった。私はこの本丸の主に様々な術を学んでいた。この世界においての力とは、また、それをどう扱うのか。素人からしたらちんぷんかんぷんこの上ない話ではあったが、途方もない話ではなかった。私は、彼女がその術を駆使している背中を、この本丸に暮らしている最中見続けていたからだ。

「…理解は出来ていても、実際に使うとなると難しいみたいね。術が上手く作動しないわ」「……理屈は分かるんですけどね、コツがつかめないというか」「…コツ、ね。私は日常的にそれに囲まれて生きてきたせいか、どうして、という部分はよくわからなくって…当たり前だったから、上手く説明できないの、ごめんなさい。その代わり、なんだけれど」

深緑が懐から単語帳を取り出した。手のひらサイズの割と大きめの単語帳だ。パラパラと、動く漫画を見るような仕草で一通りをめくってから此方に差し出した。

「わかりやすく、簡易化させた術式を編んでみたの。言霊による、簡易術式。概念というか、鎌鼬は風によるものとか、想像しやすい言葉の羅列を上手い具合に術として組み上げたものを書き出してみたわ。貴女になら扱えると思う」「…え、わざわざ?」

「わざわざというよりも、説明下手な私の横着ね」

単語帳を受け取って中を確かめる。美しい筆跡で沢山の言葉が書き出されていた。

「…凄い」「貴女にはきちんと何か残してあげたくてね…あと、私のお願いを聞き届けてもらいやすくしたくて、ね」「願い?」「そう、貴女と初めて出会った時に話したことよ」
「それはもしかして、更生役の?」

「更生…というよりも療養ね。心身ともに傷を負ってしまった彼らを、癒す役目を受け持った部署を作りたいのよ。結構あるのよ、俗にいうブラックと呼ばれる場所が。そういえば、そう呼ばれるようになったのも、貴方たちみたいな子が審神者候補として選ばれるようになってからね」「それまではなかったのです?」「俗っぽいことを嫌ったのよ」

深緑はさてと、と訓練を止め、片づけを始める。それに倣うように辺りに散らばせていた、教科書替わりの巻物や墨や筆を片していく。その最中に動きを止めた深緑がぽつりと呟いた。まるでふ、と思い出したかのように。そう、何の脈絡もなく。呟いたのだった。

「…あの子は幸せになれるのかしら」「あの子?」「……そう、あの子。名さえも曖昧になってしまった、あの子」

「あの子」と繰り返し彼女は言う。名前は告げないものだから、あの子、とはだれか。曖昧すぎる情報に答えは見えてこない。だが、なんとなくだが、分かってしまったのだ。その時の私は実に勘がよかったとしか言いようがない。あの子とは、きっとあの時の異常のことであろうと。そんな予想というか予感というか。感づいてしまったのである。黙って深緑を見つめる。

深緑は知っていたのだ、あの異常に対して。 気が付いていたのだ、静かに後片付けに勤しんでいる彼女は。そして実のところこれは鎌掛けだったのである、私がそのことに気が付いているか否かを確かめるために。

だってほら、彼女を見つめていた私を見返した深緑の表情はとても悲しそうなのだ。

「そう、ね…そうよね」
「先輩…?」「ありがとう、その単語帳大事に使って頂戴ね」

有無を言わせぬその言葉に言い知れぬ不安を覚えた。そしてそれは同時に、生涯忘れぬ後悔を覚えたきっかけにもなったのであった。今まで生きていた中で、ここまでの後悔を覚えたことは一度もないであろう、そんな悔いても悔いきれない思い
全ての出来事を省略して、この話の結果を告げてしまうのであれば。次の日、彼女は山伏に血塗れの状態で発見されるのであった。傍には一本の壊れた刀が落ちていて―