長曽祢

虫の合唱が盛んな夜、パチリと目が覚めた。外をそっと覗きこめばまだまだ月は高い。だが、一度覚醒した意識は微睡を取り戻せず、私は仕方なしに布団から出ることにした。障子を開けて、外へと出れば、夜気が少しばかり肌寒い。体を一度震わせて廊下を進めばギッという古びた木造建築独特の乾いた音が辺りに響くのだった。
他の者を起こしてはならない、とより慎重に廊下を歩く。もう暫く歩いていけば、庭に咲く桜が見えるはずだ。

庭に咲く桜はとても神秘的であった。月を背景に、それは淡く儚く煌めく。初めてみたときから、私はその虜だ。眠れない夜、目が冴えた夜はよくそこで眠気が訪れるまでの時を過ごしていることが多い。今日も同じように、宵の時をそこで過ごそうと考えたのであった。

「…やっぱり、綺麗だなあ」

今宵の月は、満月。より光が強く放たれているためか、その神秘性はより高まっているようにも思えた。そして月夜でより高まりを見せたそれは、人を魅了させるのである。ふっ、と感嘆の吐息が漏れ、手を伸ばす。触れてみたい、そうおもった瞬間に私は無意識のうちに足を踏み出した。

「そのままだと、綺麗な足が汚れてしまうぞ」
「っ!?」

反射的に出した足を引っ込める。くっくっくと喉で笑う声が耳に届いた。

「土で汚れた足で、戻るわけにはいかないだろう?な」
「…すみません」「謝ることじゃないだろう。お嬢さんの問題だ」「……はい」

梁の陰で気が付くのが遅くなってしまったが、巨体を細かく揺らしながら、長曽祢は笑っている。その顔は暫く此方を向いていた、がふいに外へと向いた。

「桜が見たいのか」「……、え、はい」「ちょうど俺は散歩から帰ってきたばかりだ。ほれ、お嬢さん、此方にくるといい」「…?」

ちょいちょいという手招きをされて、「何だろう?」と興味深々の子犬のように近づけば。ひょいと膝裏から抱え上げられ、肩に尻が乗るような形で持ち上げられる。反射的に彼の頭に掴まれば、軽々と立ち上がり、そして桜の木の元まで移るのだった。
「あっあの…」「どうだー、手を伸ばせば届くだろう」「…ええ、まあ」

彼の身長のおかげで、手を伸ばせば楽々と桜の花に届く。落ちてきた桜の花を手で受け止めて、それを長曽祢の髪にそっと添えてやれば、抗議するように頭を振った。

「おいおい、やめてくれ。柄じゃない」「そうですか?かわいいですよ」
「違う、褒められていないな」
「女からしたら最大限の褒め言葉ですよ?」
「男からしたらそうじゃない。やはり褒め言葉は恰好いいに限る」
「じゃあかっこいいですよ、桜が似合う男っていうのも」
「とってつけたような言葉だが、まあ桜が似合うっていうのもまた風情があっていいかもしれん」

くくくと、笑う長曽祢に釣られて、私もまた笑い顔となるのだった。
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